沖縄、海の歴史

2019/11/09

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海の道を束ねる海洋国家・琉球王国

琉球王国(当時の正式な呼称は琉球国)は、1429年から1879年までの450年間この海域に存在した巨大な商業国家でした。
もともと南西諸島では、長く漁業や採集を中心とする生活が営まれていました。
本格的な農耕社会の成立は12世紀頃と言われており、日本で言うところの縄文時代から平安時代まで、南西諸島の人々は舟に乗り漁に出ていたわけです。

それほど長きに渡り海で生活していた人たちにとって、海は「壁」ではなく「道」であり、また「生活の場」でもありました。
もちろん命の危険は常にあったしょうが、島と島の移動は活発に行われていたようです。
私たちが自分の住んでいる土地から、電車や車に乗って隣の市まで仕事に行き、そして帰ってくる。
それと同じような立場でごく自然に海と接していた人たちにとっては、「海の道」という認識が当たり前のことであり、そんな生活の中に「海洋国家」という概念の萌芽がすでに存在していたのかもしれません。

日本と東南アジアが交わる場所、南西諸島

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南西諸島には当初、奄美・沖縄諸島と、宮古列島・八重山列島などがある先島諸島で二つの異なる文化圏が存在していました。

比較的日本に近い沖縄諸島では、日本の縄文土器によく似た形状部分を持つ土器が発見されるなど本土の影響を受けた文化圏があったことがうかがえます。
一方、同時期の先島諸島からは、目と鼻の先にある台湾との共通点が多い土器が発見されることや、奄美・沖縄諸島にはないシャコ貝を利用した貝斧(台湾やフィリピンなどの南方諸島より持ち込まれたものだと推定される)が発見されたことから、九州にあった縄文文化とは系統の異なる、東南アジア系の文化圏に属していたと考えられています。

日本が弥生時代を迎えた頃、沖縄諸島と日本にはすでに交易の道が開かれていました。
後の古墳時代に、日本において支配階級にあった豪族が身につけていた貝輪と呼ばれる装飾品があります。
これらの原材料に使われていた貝の多くは奄美諸島より南に生息するものでした。
沖縄ではこれらを大量に加工していたと見られる遺跡が発見されており、九州・西日本を経て遠く北海道まで達したこの貝の交易ルートは絹の道、ならぬ「貝の道」と呼ばれています。

商売人は、いつの時代もフットワークが大事!

また、この頃には南西諸島を拠点にした広域な商業活動が行われていたことを裏付ける証拠も見つかっています。
奄美地方で発見された、螺鈿(らでん)細工の原料となる貝の集積地と中国の貨幣。
これらは当時、国際貿易港として機能していた博多と中国を結ぶ商業ネットワークの一部として、沖縄がすでに商人たちの拠点になっていたことを示唆する史料と言えます。

商業的な交流以外にも、714年(和銅7年)には「信覚・球美」などの人々が来朝したと「続日本紀」に記されており、後に江戸時代の政治家である新井白石(あらいはくせき)は信覚を石垣島、球美を久米島であると比定しています。
これと前後するように日本の朝廷からは南の島々の人間に対して官位を授け、南島からは朝廷に物品を献上するなど、政治的な交流も行われていました。

その後、先島諸島などでも朝鮮半島系の須恵器(すえき)であるカムイヤキや長崎でつくられた石鍋、それを模した石鍋風の土器が見つかるようになることから、800年頃には奄美・沖縄諸島と先島諸島を併せたひとつの文化圏が形成されていたのではないかと考えられています。

農業の発達が、グスク時代を到来させた

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中国で宋という国が生まれると、日本はその宋との交易を求めました。
「日宋貿易」と言うと、歴史の授業で聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。
その大規模な商業活動の中で、南西諸島で産出される貝や硫黄を求めた商人たちが多く沖縄を訪れます。

これら日本からの来訪者が増えることにより、漁と採集を中心とした南西諸島の生活は少しずつ変わっていきました。

12世紀頃、稲作や畑作を中心とした本格的な農耕社会が形成されると、交易の中で力を持った者が地元の農民たちをまとめてリーダーとなっていきます。
「按司(あじ)」や「世主(せいしゅ・よのぬし)」と呼ばれた彼らは、それぞれの居住地に石垣で囲まれた「グスク」と呼ばれる城塞を築き、勢力の拡大を狙って次第に衝突するようになっていきました。
この時代のことを現在では「グスク時代」と呼称しており、この按司たちの争いの中から次第に有力な按司が現れ、最終的には南西諸島全域を制覇することになります。
まさに本土での戦国時代を彷彿とさせるような群雄割拠状態の中、力をつけた按司たちは周辺の集落を取り込み、それぞれ小国家へと発展していきました。

按司たちの戦国!乱世の夜明けが見えてくる

14世紀に入ると、沖縄本島の按司たちは「大世の主(おおよのぬし)」と呼ばれる強力な按司のもとに統合されていき、ついに本島の北部・中部・南部に3つの国家が形成されます。

南山グスクを拠点とし、現在の糸満市あたりを支配下においた南山王国。
現在の今帰仁村を中心に鹿児島県の与論島や沖永良部島まで版図を広げ、三国の中でも最大領土を誇った北山王国。
そして、現在の那覇市・浦添市を中心に沖縄中部を支配した中山王国。
これら3つの国を、それぞれの名称から「三山(さんざん)」と呼び、その三山が鼎立していた100年間を「三山時代」と呼んでいます。

これらの国々は「王国」とは言うものの、必ずしも血統が大事にされていたわけではありません。
大世の主による絶対的な統治ではなく、実際は有力な按司たちによる連合政権であったとされています。
時には、政権を構成する按司たちの合意の元で、その時の有力な按司が新たな王として推戴されることもあったようです。
ちなみに、この三山を統一して琉球王国をつくりあげるのは、まさに「推戴された有力な按司」でした。

「尚巴志」の画像検索結果

実在した王としては、琉球王朝を誕生させた尚巴志(しょうはし)が初代の王となるが、琉球の歴史における最初の王は「天孫」と称されている。天命を受けて降臨し、琉球の島々を作ったとされ、今の沖縄に数多く残る聖地と言われる場所は、こうした神話が元になっている。王統は「舜天王統」「英租王統」「察度王統」と続いた。「察度」はもともと浦添の按司で、中国の皇帝へ弟の泰期を派遣し、貢物を治めたことにより、中国との交易が認められた。このときより、中国を足がかりに琉球の大交易時代が幕を開けた。

「沖縄の海」の画像検索結果

沖縄最大の魅力と言えばやはり「海」ではないでしょうか?

大小160、岩まであわせると実に363の島からなる沖縄県。
陸地面積だけを考えると東京都や大阪府とそこまで変わりませんが、その島々を取り巻く海域を含めた広さは、なんと東西1000㎞・南北400㎞。
九州から神奈川県まですっぽりと収まってしまうくらいの広大な範囲なのです。
沖縄県の前身である琉球王国は、この広範囲な海域を支配していた、まさに「海の上の国家」でした。

私たちはいつも陸の上で生活し、海と言えばなんとなく自分のいる場所と海の向こうを断絶する壁のように感じてしまいがちです。
そんな私たちにとって「海の上の国家」という言葉の意味がいまいちピンとこないのは、仕方のないことなのかもしれません。

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